行動変容「新しい生活様式」
今回の新型コロナによるパンデミックにおいて、日常的に使われることばになりつつあるのが、行動変容でしょう。人々の日常的な行動様式を、新型コロナ感染拡大への対策として、感染拡大前の行動様式から、感染終息後には、新しい生活様式に変更する必要があるという趣旨で使われています。これはCureAppなどの治療アプリ®のコンセプトそのものですね。
喫煙習慣を治療するために、ニコチンなどによる生理反応を、薬理的に調整させるのは医薬品(治療薬)の役割ですが、それが限られています。そこで、心療内科的な治療が必要で、それが行動変容になるわけです。治療アプリ®は、人々の行動に働きかけて、その行動を変化させることで、心療内科的な治療効果を期待するわけです。この行動変容に関係して、治療アプリのプログラムコードを書き換える場合に、一部変更による申請はどうなるのであろうと、気になってきました。
プログラムのコードフリーズ
治療アプリ®のプログラムコード開発について、CureApp井上氏による講演記録がアップされています(https://logmi.jp/tech/articles/322257)。臨床試験において、コードを変更すると、作用=薬効の評価ができないので、開発試験の期間中には、コードフリーズが必要であったと説明されています。治療アプリ®は、医療機器に属しますので、レギュレーション上は「構造」と「機能」の変更に制限がかかります。医療機器の構造を、試験期間中に修正することがあり得ない、あるいは医薬品であれば、成分を変更することがあり得ないのと同様に、治療アプリ®では、プログラムコードの修正はできないわけです。
試験期間が数年におよぶと、開始前のプログラムが陳腐化してしまうことがあったと話されています。医薬の世界では、成分が「同一」であり、薬効が「同一」であることが絶対条件なわけですが、アプリの世界では日進月歩が当然であり、日常用いているアプリでも、バージョンアップはしばしば起きているわけです。それを数年にわたりフリーズさせるわけですから、陳腐化がおこるわけです。
さらに、承認後の問題として、プログラムコードの変更が容易ではないということが、想定されます。
一変と生物学的同等性
医薬品の一部変更(一変というのが業界用語です)と承認変更申請は、「大変」です。製薬企業はみな嫌がるでしょう。成分の変更はもちろん大ごとですが、製造方法の一部を変更することは、しばしば起こり得ます。その変更が、成分プロファイルに変化を与えないこと(承認された成分と同等であること)を証明しなければなりません。
スマホのアプリはどうでしょう。どちらかというと変更が当たり前です。つねに改良されることが「良いこと」です。しかし、医薬品は「変更がないこと」が「良いこと」になります。医薬品の場合、変更が多岐にわたり影響が大きい場合には、薬効が同一であることを証明する必要に迫られ、薬効に関する比較臨床試験が必要になります。手間暇が大変なだけでなく、一致できないリスクもあります。
一部の変更にとどまる場合には、薬効における同一性の証明は不要ですが、物理化学的な試験(経口剤の溶解性試験など)で不足の場合には、生物学的同等性(BE)の証明が必要です。血中薬物濃度および最高濃度が上下の誤差20%以内で、統計検討では90%信頼区間で統計学的同等性を示す必要があります(「後発医薬品の生物学的同等性試験ガイドライン」 医薬品医療機器総合機構)。
血中動態なら一致するだろうと思われるかも知れませんが、これがなかなか一致しないのです。ある医薬品について、生物学的同等性試験を3回やっても一致ができずに、担当部門がぼろくそに言われながら、変更を諦めた事例もあります。一致しないのは、なぜでしょう。
人々の生理機能
医薬品の薬効濃度(用法・用量)は人種や生活習慣が異なれば、変わることがよくあります。時代によっても変わってきます。ある固形製剤で、米国での市販用量が、国内の市販用量の2倍という製品もありました。当時の日本人の体格と米国人の体格には大きな差がありましたし、医薬品の「効き目」に対する要求が、日本人と米国人とでは、大きく違っていたのです(米国では多少の副作用が出ても、しっかり効かなければ評価されない)。しかし、時代とともに体格差は縮小してきますし、このダブルスタンダード状態は、そのごの製品ライフサイクルマネージメントに、大きな足かせとなりました。
極端ではありますが、わかりやすい事例を示しましょう。婦人科の疾患に子宮内膜症があります。子宮内膜の細胞が月経のさいに、子宮体外に播種されてしまい、異所的に増殖することからくる疾患です。
「昔の女性は、初経から妊娠・出産までの期間が短く、子宮内膜症になる前に妊娠・出産・授乳で卵巣が休めて月経がこない期間がありました。また、多産のため月経のない期間も長く、生涯の月経回数も少なかったので、子宮内膜症のリスクが低くてすみました。しかし現代女性は初経が早く、また晩婚・晩産化、少産化傾向にあり、閉経も遅くなったことから、生涯の月経回数が格段に増えています。月経回数の増加で、経血が逆流する機会やエストロゲンにさらされる機会が増えたことに伴い、子宮内部以外で内膜症組織が増殖する機会も増え、子宮内膜症を発症しやすい環境にあるのです。これが、子宮内膜症患者が増加した理由です」(子宮内膜症ファクトブック P7)。
このように、社会生活様式の変容により、集団の体内環境も変容し、疾患の発症も変化を受けるのです。日本の住宅事情を考えてみても、戦前の和式の生活様式から、戦後の洋風の生活様式への変更は速度をあげて進行し、食生活の変化も大きく、人々の体格に大きな影響を与えています。10年単位でみていくと、集団における生理機能は、相当の変化をしている可能性が高いのです。10年前の血中薬物動態が、10年後に再現できない、一致をみないということは、おおいにあり得るのです。
行動変容
集団における行動様式は歴史的な変動を大きく受けています。生産様式が変化すれば、社会的富の蓄積とその分配は変わり、人々の日常生活も大きく変わっていきます。中世であれば、食後のひとときに音楽を楽しめるのは、自家用に楽団をかかえる王侯貴族にしかできないことでした。いまやはるかに多くの人々が、スマホとイヤホンで音楽をいつでも楽しめるわけです。そもそも変容するのが生活様式であり、行動変容する前の生活様式と、行動変容する後の生活様式というのは、固定されるようなものではなく、常に変動しているわけです。
その意味では、人々の行動様式の変容を「薬効」とする、治療アプリにおいても、10年単位の人々の生活様式の変動が積み重なっていくと、以前と同等の行動変容=薬効が期待できないような変化もおこるかもしれません。さらに、コードの書換えが必要になり、一部変更に伴う承認申請が必要になったときに、生物学的同等性に相当するコンセプトが、どのようになるのか興味が持たれます。